2012-04-01から1ヶ月間の記事一覧

これほど音楽に感動しているのに、それでもやっぱり彼は一匹の虫にすぎないのか カフカ『変身』

〔断章六より〕 衝動のようにさへ行はれる すべての農業労働を 冷く透明な解析によって その藍いろの影といっしょに 舞踏の範囲に高めよ宮沢賢治「生徒諸君に寄せる」

十二月の冷たい空気のなかで、何千何万という葉のすべては濡れたような金色に輝き、その光かたはまるでその一枚一枚がそれぞれの輝きを鳴らしながら、僕のなかへとめどもなく流れこんでくるかのようだった。僕は息をのんで、その流れに身をまかせるしかなか…

解明出来ぬほどの複雑な思念が、胸一ぱいに拡がっては消えた。『桜島』梅崎春生

僕は泣きながらその美しさのなかに立ちつくし、そしてどこにも立っていなかった。音をたてて涙はこぼれつづけていた。映るものはなにもかもが美しかった。しかしそれはただの美しさだった。誰にも伝えることも、誰に知ってもらうこともできない、それはただ…

崖の上に、落日に染められた桜島岳があった。私が歩くに従って、樹々に見え隠れした。赤と青との濃淡に染められた山肌は、天上の美しさであった。石塊道を、吉良兵曹長に遅れまいと急ぎながら、突然瞼を焼くような熱い涙が、私の眼から流れ出た。拭いても拭…

地面にひざをつき、葉の一枚を手にとって見つめてみた。その葉にはこれまで僕の知らなかった冷たさがあり、輪郭があった。僕の両目からはとめどもなく涙が流れ、涙ににじみながら目のまえにあらわれた世界はあらわれながら何度でも生まれつづけているようだ…

厚い暗号書は燃え切れずにくすぶったと思うと、また頁がめくれて新しく燃え上がった。『桜島』梅崎春生

その兵隊は、半裸体のまま、手を妙な具合に曲げると、いきなりシュッシュッと言いながら、おそろしくテンポの早い出鱈目の踊りを踊り出した。よろめく脚を軸として、独楽のように廻った。手を猫の手のようにまげて、シュッシュッという合の手と共に、上や下…

あとの方は独り言のようになった。『桜島』梅崎春生

陸戦の士官の持つような頑丈な軍刀に片手を支え、酒盃に伸びた手の指が何か不自然なほど長かった。『桜島』梅崎春生

自分をいたわりたい気持と自分を虐げたい気持が、奇妙な調和を保ちながら、私を饒舌にした。『風宴』梅崎春生

こなを こねる こねこ

上体を前後に振ってみると頭の中がごろごろ言うのが面白くてゆらゆらしていると、小さな女中がちょこちょこ私の前あたりにやって来たと思ったら、べったり横ずわりして、横の文科の学生に話しかけた。『風宴』梅崎春生

娘が死んだとて直接は関係の無い、恐らくは悲しくも嬉しくもない連中が、落着かぬ気持で酒を飲んでいるうちに段々いい機嫌になっては来たものの、騒ぐわけには行かんという反省が内向して変な具合になり、酔いがこじれたままで一挙にふくれ上って来るようす…

殺気だった部屋から逃れて、不意にこんな明るい灯の下に来たので、何となく落着かない。娘の死んだことが、何だか夢のように現実感が無かった。ちぐはぐな気持ちになって三人で冗談ばかり言い合った。『風宴』梅崎春生

人は、貧血したり、死に移行しようとして脳細胞の活動が無に近づけば、瞳孔は散大し、焦点は呆やけ、光は眼底へ大量に射込まれて、外界の物皆は遍満する白い光線に覆われて浄土のように輝くのです。『空気頭』藤枝静男

A子と私との情交はあいかわらず続いていました。いや、A子は終戦と同時にいっそう性慾的になりました。私もまた、一時は前よりもガツガツして、そしてその度に「実のあること」をしたような気持ちになり、何だか変な話ですが、戦争中と同じことだと思ったり…

私は、はじめて親友安富君が別れぎわにあの中国糞尿学の文献を私に手渡した意味を諒解することができました。『空気頭』藤枝静男

私は栄養不足による肉体的の衰えと逆に歩調を合わせて、精神が解放され自由になりました。毎日の空襲が、生活の一種の彩りになっていたと云っても嘘にはなりません。それを頽廃の証拠だと云われれば、それでもいいのです。とにかく、その場その場の快楽を、…

しかし、だからと云って私たちの生活が、一枚の灰色の布のような憂欝にだけ覆われていたわけでは勿論ない。ある決められた制限のなかで、臆病に、しかし充分楽しく、ささやかな冒険を試みることもできたのである。『空気頭』藤枝静男

老人とサーニカとはふた手に別れて、羊の群れの両端に立った。二人とも棒のように立ちつくした —身じろぎもしないで、地面を見つめ、考えこみながら、老人のほうは幸福についての思いから逃れられなかったし、若者は若者で、夜ふけに聞かされたことを考えつ…

ぼんやりとまわりのぼやけた巨大な、真っ赤な太陽が昇った。まだひんやりとした、幅の広い光の帯が、露の下りた草に身を沈め、伸びをしながら、これは嫌なことではないのだと見せつけるように、嬉々としたようすで大地に横たわり始めた。銀色の蓬、野蒜の青…

長い、露のやどった口ひげを撫でながら、彼はずしりと馬にまたがって、何か忘れものがあるか、言い足りないかといったふうで、目を細めて遠くのほうを見た。いちばん地平線や果てしない曠野のあちこちに聳えている物見や古墳が、いかめしく、ひっそりと見お…

検事は顔に子どもの息のかかるのを感じ、絶えず髪が頬に触れるので、胸が暖かくなって心が和んできた。両の手だけでなく、まるで身も心もセリョージャのジャケットのビロードの上に乗っているように和むのだった。彼は少年の黒い大きな目を覗きこんだが、そ…

彼は仕事に取りかかったが、ものうい、家庭の中での物思いは、その後も長いあいだ頭の中をたゆたっていた。上のほうではもうピアノの音は聞こえなかったが、二階の住人は相変わらず、隅から隅へと歩きつづけていた…。『家庭で』チェーホフ

いやはや、なんのための議論になったのでしたかな!初めは健康のことだったのに、死ぬ話になっちまうなんて! チェーホフ『ヴェローチカ』

光を伝える!こういう言葉は、会話にも本にもありませんが、それを考え出し、頭の中に見つけ出したのですからね!『聖夜』チェーホフ

夜の闇を初めとして、鉄板や、墓標の十字架や、その下で人びとが騒いでいる木々までのすべての自然に、ざわめきと不眠とを見たかった。『聖夜』チェーホフ

人間の幸福というものの幻のような、おとぎばなしのような性質が彼には興味深かった。『幸福』チェーホフ