2012-09-01から1ヶ月間の記事一覧

もう世界中の誰のこともああだこうだ言うまい。なんだかとても若返り、同時に言いようもなく老いた感じがする。『ダロウェイ夫人』ヴァージニア・ウルフ

ロンドンの通りに、物事の消長の中に、あそこに、ここに、わたしは残る。ピーターの何かも残る。互いに相手の中に残る。わたしは確実に故郷の木々の一部だし、あのつぎはぎだらけの醜い屋敷の一部だ。そして、まだ出会ったこともない人々の一部でもある。『…

三時間後に、心斎橋の大丸で友だちと待ち合わせをしていた。それまでは、自由だった。わたしがここにいることを知っている人は誰もいなかった。 『寝ても覚めても』柴崎友香

この女の死を知って、この女の生涯ぜんたいを見渡した後でようやく、俺は自らの人生を終えることができるはずだ。『赤の他人の瓜二つ』磯崎憲一郎

身動きのならぬ病床でも、実際に喘いだことはほとんどなかった。一度息を走らせたら、辛抱が破れて、喘ぎが止まらなくなるとおそれた。しかし細く揺らぐ平衡がどうにか落ち着いたかという時に限って、安堵の隙を窺っていたように、笑いにも似た喘ぎの衝動が…

「存在するとは何か?」という問いでさえ、「存在する」という動詞を使って問いを立てている。問われている当のものを経由して問うているのである。そしてこの問いへの答えもまた、いやおうなしに、存在の用語法で与えられる。レヴィナス

作家はその作品を通じてはじめて自分の位置を知り、自分をかたちにする。作品より以前に、作家は自分が何ものであるかを知らないばかりか、何ものでもない。作家は作品のあとにはじめて存在し始めるのである。ブランショ

時枝は、英語を天秤に喩えた。主語と述語とが支点の双方にあって釣り合っている。それに対して日本語は「風呂敷」である。中心にあるのは「述語」である。それを包んで「補語」がある。「主語」も「補語」の一種類である!(私はこの指摘を知って雷に打たれ…

そうして理性がつまずくところ、そこに信仰がはじまるのである。キルケゴール

海はまだヤルタやオレアンダがなかった頃も同じ場所でざわめき、現在もざわめき、私たちがいなくなったあとも同じように無関心にざわめきつづけるだろう。その恒久不変性のなかに、私たち一人一人の生や死にたいするこの全き無関心のなかに、恐らくは私たち…

音のうまれるときは、人間の内部にもからっぽな空間がある。心にじゃまされずに音に気づき、音のはこびをほとんど意思の力で消えるまでたどる。音をつくる身振りは訓練をかさねて、意識からはなれていく。フィードバックの環がまわりだすと、はじまりの点は…

「壊れた世界」とか「覆された世界」という表現は、今やありふれた常套句と化してしまったが、それでもやはりある掛け値なしの感情を言い表してはいる。諸々の出来事が合理的な秩序から乖離してしまい、ひとびとの精神が物質のように不透明になって互いに浸…

あなたは冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。ヨハネの黙示録

味はともかくそういったもので腹を満たし、昼間のうちは目をつぶっていたのだが、寝ているのか起きているのかはっきりしたことは誰にもわからなかった。夜もただ歩く夢を見ているだけなのかもしれないとは誰もが疑っているところだった。ときおり腰のあたり…

日曜の夜中12時過ぎ… 私はいつだって 電車に乗る事ができる。 乗ろうと思えばいつだって。 三好銀「いるのにいない日曜日」

たしかに、私の走り方にはなにか恐るべきものがあったと思う。頭をのけぞらせて、歯を食いしばり、肱を最大限に曲げて、膝がいまにも顔にぶつかりそうになる。この走り方のおかげで、私より速いものをつかまえたこともたびたびあった。『モロイ』ベケット

五人がおたがいに紹介しあった。荒川は、漆黒の頭髪が波打ち、きゅっとしまった容貌の真中に黒ダイヤの眼が光る。私には見えないものをふくめて、実に多くのものをみつめてきた眼だ。日本人にしては白い肌がニスの光沢を帯びて深いところから赤みがさしてい…

わたしは捜しもとめている 創世前にわたしが持っていた顔を イェイツ『螺旋階段』

すべての小説の発端は、さしあたり可笑しなものだ。この新しい、まだ不完全な、どこも脆弱な有機体が、この世の中で生きていくことは、絶望的なことに思われる。十二月十九日 カフカ日記

ひたすらにこやかに、仏のごとく微笑みつづける夢を見て、目をさましたら憤怒の跡が皺に深く刻みこまれていた、というようなことは、あるだろうか。『槿』古井由吉

『ドン・キホーテ』という小説は、ドン・キホーテがドゥルシネーアを思い浮かべながら、えんえんと旅をする、一生懸命奮闘するという小説ですが、そういうドゥルシネーアのような人を持たなければ、人間はダメなんだ。そんな言い方を、中沢新一はしていたよ…

統治されざる内面、あいつらが利用できない内面を作ることが芸術の使命であり、それはここからはじまる。保坂和志

何かが全貌をあらわしたあとよりも、それが出はじめたときの方がその本質がわかるというのはいい教訓だ。もう手遅れかもしれないが。保坂和志

私が宿命とか「死なないために」という言葉を使ってきたのは、その宿命とか運命のなかには「こと」も「もの」も何も入ってこない絶対絶命の世界だからなんです。『生命の建築』荒川修作

アルクマールのとある陳列室で、二面の鏡のあいだに置かれた地球儀が無限に数を増してゆくのを見た。『アレフ』ボルヘス

(子供のころ、わたしは閉じた本の文字が夜のうちに混じりあって消えてしまわないのを、しばしば不思議に思ったものだ)『アレフ』ボルヘス

これから先、子どもたちが今以上に幸福になることは、やはりないだろう。『燈台へ』ヴァージニア・ウルフ

二人は散歩しながら、海が奇妙な光り方をしていると話し合った。水は非常に柔らかく温かそうな藤色で、その上に月が一筋の金色の帯を流していた。『犬を連れた奥さん』チェーホフ

地団駄踏んで だだを捏ねた 謝り方は知ってる だけど知らない ステップも何も 明日のあなたの行方も さよなら いくつ集めて 遠い でも きらり 会いたいな 「初花凛々」Cocco

装置であるのは、むしろ小説の方なのです。装置でありながら、何の装置だか使用法がわからないものとして小説が存在しているのでなければいけない。(中略)小説という装置は、おそらく小説家にとってさえ、それが何に役立つか見当もつかない粗暴な装置であ…