静かな日曜日。
わたしの場合静かであることはすべてに優先する。
鳥はいくら啼いても、この静けさを乱すことはない。



津波の映像を延々と見ていた。
津波自体に善悪はない。
過去も未来もない。



年齢を経てよかったと思うのは、
人生の「つづき」を見られた、体験できたからである。
あの体験、あの出会いが、
その後予想もしなかった出来事と直結する。
そのうねりの豊かさに驚く。
波の終わるころ、その端っこの泡沫さえ、
なにかに姿を変える。
そういう交響曲
そういう映画をつくりたい。



「神秘的融即」は、文化人においては通例人物同士の間で生じ、人物と事物の間では滅多に生じない。前者の場合は所謂転移関係であり、主体に対するいわゆる呪術的な、即ち絶対的な影響力が客体に付与される。後者の場合は事物に同様の影響力が付与されたり、事物やその理念との一種の同一化が生じる。ユングbotより




会社のトイレをよく掃除する。
トイレを汚いと見るのは、だまされているというか
うわっつらな仮象に引っ張られているからである。
ほとんどよのなか、この仮象というやつに幻惑されて本質を見失っているのである。
本質に気づくと、その本性が「ばれたか〜」といって笑って仮象が去るのである。
トイレは汚いという観念が去っていくのである。
人は仮象でみずからの生を窮屈なものに、そして縮め自死さえするのである。
ただ〈気づき〉というのは、知識ではなく体認の方にあることは注意しなければならない。
知識が気づきを促すことはあるが、「ああっ!こういうことだったのか!!」という
ハラへの落ち方は頭の方ではない。