泥沼にもいろいろある。



先日降った雨で現場の重機が泥沼にはまり込み、
その脱出に一日朝から昼もとらず、夕方まで、
最後は救世主のようにたまたまユニックが到着して、
引き上げてくれた。
※写真とは関係がない。



一日中、泥沼を見ているといろんなものが、
泥沼を哲学するみたいに考えていた。
ソラリスの海のように、泥沼はわたしの想起を
あるいは無意識を物質化していった。
同じ場所の泥沼も、時間や気温、踏み込み方によって
まったく別のものに変質し、
この一日の無益な格闘が映画の導入部にもなりうるのになと、
カメラをもたないことを悔やまれた。
この場面が映画に似ていたのは、そこにいたみんなが
泥沼から抜け出すというテーマ一色に染め上げられていたからである。
わたし以外を除いては。
わたしはそのとき、迷宮とか円環だとかヌーヴォーロマンだとか
そんな関係ないことばかり考えていた、重機を横車に押しながら。
不真面目極まりないが、まわりが真剣であるほど冗談に思えてきて仕方がないのだ。
大西巨人はそうやって戦争をだしぬいた。
彼は戦地に『武器よさらば』を携行した。



『フランドルの道』にも泥沼の光景があり、
重砲など泥沼からひきだす困難さこそ戦争の本質を
伝えているように思えた。
また将棋の故米永邦雄永世棋聖は「泥沼流」という
「劣勢になると自陣に駒を打ち付け複雑にして逆転を狙う」棋風について考えもした。




映画「ザ・マスター」についての感想を別のブログに書いたのが、
それがよかったことだったのかわからない。




幼なじみの結婚式へ出席。
隣に座ったいとうせいこう似の人がわたしの結婚相手を
必死になって探してくれていた。


わたしは結婚式の間中、
来月会えるかもしれない曽根中生についてずっと考えていた。
ふとなにか、こみあげるものがあって、
それが結婚式についてなのか曽根中生についてなのか、
それともわたしの人生についてなのか混ざり合って、
わからなかったが、とにかく涙が出てきた。