私たちは歩いているの?


韓氏意拳という中国武術の講習会が近所であることをネットで知り、申し込みをして参加した。

韓氏意拳はユン・ウンデ著『FLOW』を読んで以来ずっと気になっていた。
2006年の11月に読了しているから、7年経っている。

生まれ故郷のこんな片田舎の公民会に日本韓氏意拳学会会長の光岡導師が来るというのもなにかご縁を感じてうれしかった。


講習はいきなり形体訓練という両腕を前後に振る運動を全員(といっても5名ほど)でやり始める。
初心者は私だけのようで、みな慣れた身振りで始めている。
これはただ腕を前後に振るというのではない。
いや違う、ただ前後に振ることだ。
しかしこれが極めて難しい。
肩を支点にしてはいけないし、腕を振り回すというのではない、力はどこにも入っていない。
光岡導師からは「肩の延長」「物を取りにいくように腕を前に出す」と何度も何度も言われたが、これがうまくできない。
形体訓練は全部で七種類あり、いわばウォーミングアップのようなものだが、ストレッチともましてや筋肉をつけることとも違う。
これ自体が身体の「不自然さ」や詰まりを調整し、自分の身体と会話する鋭敏な感覚を準備する練習であるように思われた。
いやとにかく韓氏意拳はこのような言葉による安易な同定化を避ける。
そこにはもうなにもない。


そして本題の站椿(タントウ)である。
站椿は傍目から見れば、ただ腕を上げて立っているだけに見えるだろう。立禅とも呼ばれている。
しかしこれが難しい。5人いれば5種の站椿があるくらい、みなばらばらだ。
光岡導師からは要所要所で不自然なところを指摘される。
そして身体が安定し、上下半身が連動し、身体の特定の部分に力が入ることなく、つねに流動的な動性に満たされると、
私の腕を押さえてくる相手を軽々と動かすことができて、我ながら驚いた。


家に帰ってからも形体訓練と站椿を朝晩20分から30分くらいすることを、習慣とした。
いつも4時過ぎには目ざめ、清澄な空気の元で木刀の素振りや四股を踏むことを日課にしていたが、
これに形体訓練と站椿を加えると、素振りも四股もいかに「全身的」であるかを意識して行うようになった。


それからまもなくして訪れた身体変化は歩くことの充実だった。
足の裏がなんと言えばいいのか、べったりと地面に吸い付くような一歩一歩で、
とにかく歩くことが愉快で気持ちが良くなっていた。
いままで自分は歩けていなかったことに愕然とした。
足の裏だけでなく、腰や臀部など異様なほどの安定感、充実が歩行の際に訪れた。


站椿についてもただ立っているという地味な動きでも、気持ちの良さを覚えるようになった。
どこにも力が入っていないということがこんなに快適なことなのか。生き返るようだった。


まだまだ初心者だが、これからも講習に通って身体意識の変化を楽しみたいと思う。