誰もがまったくのしらふだったのだ。真っ暗な店のなか、ぽつぽつと点されたろうそくの小さな光のうえを、幽霊のような演歌が漂っていた。「母の、小さな、てぶくろを」日本の演歌を良いと感じてしまったのは、私の人生のなかで初めての体験だった。「忘れもしない、母の、小さな、てぶくろを」不覚にも演歌を良いなどと感じてしまったことを恥じて、テーブルの向かい側に座る遠藤さんにはなんとか気づかせまいと必死だったが、この湿った暗い曲調とありふれた歌詞が、そのときだけはどうしてなのか、私たちがふだん営んでいる社会的な、常識的な生活よりもよほど明快な摂理のように思われてならなかった。『眼と太陽』磯崎憲一郎