世界そのものの始原の日日の寂しさは,小児にとって未来とおなじくらいなつかしく,現在とおなじくらい測り知れなかったが、冒頭の見ひらきでいきなりそこにさわれた.そこにはまた7おん5おんのはずみをびみょうにかわした散文の息づかいもまじっていたし,いっきにさかのぼった原古の仄昏い哀切を想起している主体が,生きものではなく小川だというふしぎな目まいがひそんでいたりもした.『累成体明寂』黒田夏子



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いまの季節、いわゆる暑くも寒くもなく、大気と私、気候と私との境がなくなって、気温の刺激がなくなり溶け合い環境と一体となる。内的な圧力も外的な圧力も消えるとふつふつと喜びに似た力が自然と沸き出してくる。放り投げた球が放物線の頂点で一瞬静止したように見えるとき一瞬だが重力から解き放たれたように見えるのと似ている。向かい風に抗し懸命にチャリを漕ぎながら笑い、早足で歩きながら笑っている者を通勤途中で見る。理由もなく、ただ芯から沸く愉悦が人をにやけさせるのだろう。春になると変な人が出てくるというのは詮方なかった。