私は彼女がいよいよ駄目だということを知ったのは、死ぬ十日前であるが、いつしか、この種の病人を見とる身よりの者たちは、たいていこのときまでは、死ぬとは思ってはいない、ということを知るようになった。私はその頃になって病院を出て、新宿の歌舞伎町あたりを歩いて駅までやってくる途中、道行く人に声をかけたいような気持になった。何も特別なことをいわなくとも、ただ声をかけさえすればいい、という程度のことである。『月光』小島信夫