部屋が暑くなってひさしぶりに袖をまくる行為をする。袖のなかの腕を久しぶりに見たような気がした。長く巻いていた絆創膏をはがした時みたいに青白かった(「腕白」の語源が気になり出す)。それだけで深く息をしたような気がして、そのあと〈私〉があたりの空気に滲み出して広がった。それが自分より近ければ濃くて、離れれば薄いものなのかはまだわからないが、漂い始めているのは確かだ。それは体温と外気温が近しい関係のものになったということなのだろうか。やはり近い遠いの距離的なものは関係なく、ひとことで「空間」とか「辺り」といったものに〈私〉という輪郭が溶けはじめ混じり合ったと仮に書いてみる。机の端に生の腕が触れる感覚も懐かしいものになっていた。冬の内省加減のひどさと服による身体の密閉はきっと関係があると思う。でもきっとドストエフスキーのような啓示は寒さや厚い外套なくしてはないのだろう。たぶん昨日の突風は春一番だろう。砂埃がはげしく舞って目が痛く、なにも見えなかった。涙で睫毛を濡らしながら後輩を指導して遠目から見れば後輩になぶられてるみたいで馬鹿馬鹿しくてよかったんじゃないのか。track13