「権利」なしに書くものたちが期待するのは、もっぱら「才能」である。であるが故に、そこでは退屈さとめぐりあうことしかないだろう。あらゆる人にほどよく備わっていたりいなかったりする言葉の「才能」の分布が、詩の世界にも等しく認められるというだけのはなしだからである。いっぽう、松浦寿輝は、「才能」などには背を向け、断固として「権利」によって書く。それが育ちのよい不遜さとでもいうべきものとなって、ある種の孤立を彼に課すことにもなるだろう。だが、いうまでもなく、読む感性をいやおうなしに刺激するのは、「権利」によって書かれた言葉に限られている。
「才能」で言葉を綴ろうとするものたちに欠けているのは、記号としての単語なりその連なりに向けて、音としては響かず、文字としては瞳に映らぬささやかな記号を差し向けようとする気遣いである。言葉が言葉であろうとする「権利」などは意に介さず、彼らはただ言葉を操り、その操作に屈服するかのような言葉の配置を目にして、それがおのれの「才能」のあかしだと錯覚する。それが、いまあたりに書き継がれてゆくほとんどの言葉の蒙る存在論的な不幸なのである。
蓮實重彦松浦寿輝詩集』