「監督失格」


平野勝之監督「監督失格」を大分シネマ5で見る。凄すぎた。。
小島信夫の『別れる理由』の後半や『美濃』がこれは小説なんだろうかと疑問を抱かせるのと同様に、「監督失格」も映画なんだろうかと思うが、最後「再生」という落としどころでかろうじて「映画」にしてあるところが、かえって「映画」の限界を露呈してしまっていると言える。かつて愛した人の死の発見を撮影したがゆえに、現実が翻弄され、他律的に(乗り気でなく)監督はこの作品を仕上げたところが興味深い。平野監督が語る「作らされている感」。作品に現実が混入してくる倍率1倍の映画として、そっち方向の広がりを期待しもしたが、「作品」にしなければいけないという枷が平野監督の個人の成長記として外見をとりつくらせてはいるものの、写っているのは林由美香やお父さんみたいな由美香ママばかりであるのもおもしろい。また監督自身のこの映画のメッセージとして「死ぬなよ」と言っていて、それはそれで別のテーマになり得るし、そういう複雑さ(ちらかり)大きさをこの作品がはらんでいるのも魅力である。そうであるならば、2時間と「作品」としてまとめてしまうよりも、もっと何時間でも見たかった。小津は映画は人間の感情さえきちんと描けていればいいんだと語ったが、この映画はシーンシーンの登場人物の感情が端的につかまえられていて、その強度だけで成立していると言ってもいいが、中心の監督だけそこがうまくいってないのが(まあメインの撮影者であるわけだし)おもしろい。腰痛という身体的刺激が5年間抑え込んでいた感情を開放させたのもおもしろい。話を整理するための安っぽい編集は残念だが、冒頭の自転車と円環でつながっていく厚みは成功している。出棺が過去の男たちによって行われる幸福な場面はムービーで見たかったなあ。いい意味で問題作。作品がはらんだ「大きさ」を監督が全くコントロールできずに、それでもなんとかしようと右往左往しているドキュメント。今年の日本映画ベスト1。こんないい映画の公開初日なのに観客3人しかいなかった。。この映画を見て無性に小津の映画が見たくなった不思議。